「〇〇先輩ってマジで有能だよね」
「〇〇さんは能力が高くて本当に尊敬する」
どんなコミュニティでも交わされているようなごくごくありふれた言葉である。私も何度もこのような言葉に遭遇したことがある。しかし、なぜか今まで一度も腑に落ちず、気持ちよく相槌を打てたという記憶がないのだ。
自分ではなく他者が褒められているのが悔しかったのだろうか。確かにそれが一因かもしれない。
でも、それだけじゃない違和感が心の中から消えてくれなかったのだ。
会社で働く社員が出す成果にばらつきがあるのは(成果の測り方が明確でなかったとしても)なんとなくわかる。フィジカルスポーツ・マインドスポーツでプレイヤー間に実力差が存在するのもわかる。ただ、それが「有能」という言葉で表されることになぜだか納得がいかなかった。
そんなもやっとした気持ちにヒントを与えてくれたのが本書である。
この本はひょんなことから(まさか自分のエピソードを話すときに使うとは思わなかった)著者本人に御恵投いただいた(一度言ってみたかった)人生初の本である。もともと読みたくて読書アプリの読みたいリストに入れていたのでめちゃくちゃ嬉しかった。ありがとうございます。
本書の主張は第一章にある
「「能力」って本人の所有物化のように語られるけど、本人が置かれる環境次第で見え方は七変化する。」
という一節で最も的確に言い表されていると思う。
本書では手を変え品を変え、そしていくつかの具体例も交えて上記の内容について丁寧に説明されている。
この一文を読んだとき、なぜ自分が「有能」だとか「能力が高い」だとかという言葉に素直に乗れないのか分かった気がした。「能力」という言葉は抽象度があまりに高い言葉であるのに詳細な定義をされないまま当たり前のように使われてしまうため、被評価者のすべてを肯定しているように聞こえていたのだ。
だから、有能判定された人が、されていない他者と比べて人間の格として優れている、というように、優性思想的な意味で優れている、という風に聞こえてしまっていたのだ。
本人が置かれる環境次第で(能力の)見え方は七変化する。本当にその通りだと思う。その通りであるからこそ、自分が置かれている環境を能力が高く見える環境にする努力、そのような環境を発見してそちらに移動するような努力は忘れてはならないなと感じた。